どこよりゲーム天国 2


「万人受けするゲーム」というと、プログラムとしての完成度や美麗なグラフィック、作りこまれた戦闘システム、こういったものは副次的なものにすぎない。もっとも重要なのは物語性だと思う。

テトリスが許容されていたのは、技術が未成熟な時代だったからである。


(特に日本の)RPGやアクションゲームは物語性が全面に打ち出ているものが多く、主人公が行動を起こさなければ魔王の手によって世界が滅亡するとかテロリストが核爆弾を起爆するとかそういうわかりやすくなっている。いわば洋ゲーの代表格であるCall of Dutyシリーズは実はこの系譜に近いというか、かなりJRPGチックなところがあると思う。CoD4:MW, CoD:MW2しかやったことないけど。
メダルオブオナーシリーズもプレイヤーは主人公(単にプレイヤーが操作しているキャラクターというわけではなく、まさしくその物語の主人公であり、その行動によって世界が変革する存在)として戦うけれども、CoDほど名前が前面に出ているわけでもなく、ましてや主人公以外は完全に「交換可能な」モブでしかない。一応名前はついていたような気がするが。
CoDでは頼りになる上官(プライス大尉)や先輩たち(GazやGhost)、プライスがかつて若い頃だった頃の上官(マクミラン)などなど、主人公と行動を共にするキャラクターたちはみな「かけがえない」存在でもある。敵のほうも上官と長い因縁があるうえ、目の前で先輩を殺害した憎むべき相手(イムラン・ザカエフ)などなど、倒すべき相手になっている。
このような作品では、あらゆる事件は一つの物語に収束するように配置されており、基本的に余計なものは隠されている。

  


ただし、ゲームにおける物語性は別に主人公が世界を変える、というものに限らない。
レースゲームなんかは代表的だけれども、プレイヤーは「主人公」ではない。しかし、レースゲームはたいてい実在の車を実在のコースで走らせることを模擬するものである。
JRPGのようにゲームソフトの中で物語を提示するのではなく、プレイヤーの中にある物語を自動車やコースといった記号を提示することによって借景のようにプレイヤーに勝手に想起してもらうのである。
今テトリスを買う人は、かつて自分が若かった頃や自分が生まれていなかったビデオゲームの揺籃期を思いつつ買っているのだと思う。


大乱闘スマッシュブラザーズが格闘ゲームをやらない層にもヒットしたのは、格闘ゲーム流のコマンド入力システムがなく簡単に遊び始められるというのもあっただろうけれども、それ以上に各キャラクターが背後にある物語を想起させるからである。

ゲームの特徴として、外へ開いていないということがあるような気がする。さきほどのレースゲームの例のように、外のものを取り込むことはあっても、内側から外に出て行くことはない。(王天君の紅水陣のように)だから、本来的にはゲームをやるためにプレイヤー(アバターではなく)がどこかに行かなければいけないとか何かを買わなければいけないというのは本来の「ゲーム」ではないと思う。また、プレイヤーの得られるものはゲーム内の評価だけであって、現実に何かがもらえるというのも不純物である。(だから、ソーシャルゲームに対する批判で「ただのデータに課金するとかw」というものがあるけれども、本来ゲームとはそういうものだと思う。)
しかし、「ゲーミフィケーション」はまさしくそれをさせるものである。

最近流行のIngressやガラケー時代からある「位置ゲー」なんかはどういうデータを採集しているのか細かいことは知らないけれども、それが「こんなふうに役立っています」というのをアピールしてはいけないし、アピールしていなくてもだれでも容易に想像がつくようなものは引かれるだろう。
プレイヤーにどれだけゲームの外を隠してゲーム内の世界にいるように錯覚させるか、それがゲーミフィケーションのコツなのではないだろうか。

ゲーミフィケーションの中で僕がもっとも興味深いと思うのはアキネーターである。あれはいわゆる「ゲーム」的な要素が欠如しているのに、ゲームとして成り立っているように思える。アキネーターはゲーム内の世界というものを持っていないし、プレイヤーに何かリワードがあるわけでもない。
それでもアキネーターは何かと聞かれたらゲームとしか言い様がない。

ゲーミフィケーションを考える際、もっとも考えなければいけないのはアキネーターだと僕は思う。