塚原卜伝

NHKで最近「塚原卜伝」という時代劇をやっていたのをご存知だろうか。
「薄桜鬼」もとい「薄桜記」など、BSで放送した時代劇を再放送する枠が木曜にあり、そこで今週木曜までやっていた。

自分も見始めたのは第3回とかで、途中見逃した回もあるので結局半分くらいしかみていないのだが、これがなかなかよかった。
ストーリーは見てないのだからよくわからないし、殺陣シーンも緩慢な動きですぐ決着がつくので迫力はない(と感じた)が、妙にひきこまれた。

舞台となっているのは室町時代である。時期的にはすでにいわゆる戦国時代になるのだが、京都の町中などで話は繰り広げられているため戦国武将をテーマにした時代劇なんかとは一線を画している。
時代劇といえば、スケールの大きいほうは「源平もの」・「戦国武将もの」・「幕末もの」の三種類(大河ドラマが代表)、細かい事件を解決していくような「江戸時代もの」(八丁堀の七人や水戸黄門、暴れん坊将軍などをイメージしてほしい)の四種類がありがちなものだと思われる。
このうち前の三種は時代考証をしっかりするよりもドラマ性を重視する傾向があるように思える。また、描写の中心は人物である。一方後者は当時の町並みや社会制度、風俗もひとつのテーマになっているため、人物以外の作りこみも重視している。と思う。

大河的人物ドラマはさまざまな時代のものが楽しめるのに、いままでの時代劇は基本江戸時代ばかりだ。
はっきりいって食傷気味な人も多いと思う。

そんな中、この塚原卜伝はそれを室町時代を舞台にやってくれたのである。

室町時代は江戸時代ほど社会制度がしっかりしていない。画面からこれは「近世」ではなく「中世」なんだ、ということが伝わってきた。
特に円珍が出てくる話はそれがすごく伝わってくる。

江戸時代も農村のほうは無論事情が異なるだろうが、時代劇で舞台になる江戸の町はenlightedなのだ。江戸の街には「人ならぬもの」は基本的にいないといってよい。
しかし室町時代は違う。首都・京都とはいえ人の領域はまだ一部、境界を超えればそこは人ならぬものの領域…。
なんてことを思ってしまう。

中世と近世の違いには諸説あるらしいが、中世では人と人ならぬものの境界があり、人はその境界を越えようとしなかったが近世に入ると人はその境界を超えて冒険をしだした、なんて定義はできないだろうか。そしてその征服が終わったのが近代である。

欧米の方でファンタジーといえばロード・オブ・ザ・リングのように中世がベースとなっている。
中世にはまだ人間は地球上の一種類の種族にすぎず、決して「主人」ではなかった。
だからこそ、人間と同等の種族であるエルフやオークといった種族たちが暮らすことができたのだろう。
それが近世、近代と進むにつれて、人間は地球の主人として振る舞うようになった。そしてかつては人間と並ぶ存在であった種族たちは、記憶の彼方へと追いやられてしまうようになった…。
そんなかつての世界をファンタジーの中で蘇らせようとしているのではないだろうか…。

ファンタジー好きにはおなじみ、Truth in Fantasy シリーズの記念すべき第一巻「幻想世界の住人たち」には、章ごとに導入文がついている。その一部を引用すると

この地に「人」と呼ばれる生き物が住み着いてから、何千年が過ぎただろう。やってきた時は。彼らも神秘なるものと共に生きる者たちであった。
それがいつの頃からだろう。「人」が神秘なる者に対する謙譲を忘れ、自らの力に酔い出したのは。今では、、おごり高ぶった「人」は、石を積んで城を建て、森を倒して家を広げ、自分の力だけで自然を支配できると思い上がっている。
そして、神秘なる力を敬うどころか、恐れ、追いだそうとする。……

 今こそ、人間は謙虚になるべきときなのではないだろうか?
「彼ら」の世界は我々が気軽に足を踏み入れて良い世界ではないのではないか?

そんなことを考えさせるテレビドラマだった。