学歴コンプロレスタンティズムの倫理と資本主義の精神

友人にかなりひどい学歴コンプを抱えているのが一人いるのだが、「希望の大学に行けなかった罪悪感から、テスト勉強を頑張る」というようなことを言っていた。
一所懸命勉強すれば救済される…というのはプロ倫の中身にかなり近いものがあるのではないだろうか。

学歴コンプは、一体何故生まれるのか。それは受験というものが初めて経験する努力の否定であるからだと考えられる。
小学校においては特に、今日の教育現場ではとにかく努力することがよしとされる。結果よりもその過程が重要であるというように。※1
この価値観のもとでは当然努力したものにそれ相応の結果が伴うはずだ、と思わされてしまう。
これは勉強についてもいえて、「テストで良い点を取りなさい」、「偏差値をあげなさい」といわれるより、「勉強しなさい」といわれることのほうが多い。成績が悪いのは勉強していないからであり、勉強をしていれば自ずから良い成績が伴う、というように、努力量=成績の図式が信じられている。

しかし、受験というものは、試験が全てなのである。試験を行う側は受験生がどれだけ自分たちの学校に入りたいか、そのためにどれほど努力してきたのか、といったことを聞いてはくれない。全ては答案で示せというわけである。
いくら努力していても、得点が基準に及ばなければ入学を許されない。逆にいくら遊んでいようが、合格点に届いていればよいのである。※2

自分は寝る間も惜しんで勉強したのに落ちて、なんであいつが受かっているんだ…?自分はあいつより努力していたんだから、本当は受かっていたはずだ。
これが学歴コンプのはじまりである。

受験に失敗した場合、大学受験では浪人という手もあるが希望のところよりもレベルの低い学校に行く場合もある。そこには彼(学歴コンプを抱えているA君、とでもするか)よりはるかに少ない努力量で、最初からそこを狙っていたような人もいるだろう。
そんな人達をみると、今度は「自分はここにふさわしくない、やはりあそこ(受験に失敗した学校)が自分の居場所としてふさわしかったんだ!」と思うようになる。

努力量と結果、相関関係はあるにせよ本来別のものであるこれら、これらを同一化して考えてしまっていることが学歴コンプの大きな原因になっていると考えられる。
小学校のうちからバリバリ競争原理のもとで鍛えておけば、このタイプの学歴コンプはなくなるだろう。(でも、そんなことをするくらいなら学歴コンプで少し悩むだけですむ現行の制度がいいと思う)

 ※1
親であったり、容姿であったり努力でどうにもならない生得的なものはあるが、実はこれらが本当に効いてくるのは結構後だったりするのではないだろうか。
たとえば親の収入なんていう問題は、子供の頃は単に買ってもらえるゲームソフトの本数といった問題に還元されてしまう 。

※2
そもそもある程度の難関校には全く遊んで入ってくるような生徒はいなかったりする。人より少ない勉強量で入ってくるのはいるにせよ…。
しかし人は自分をより良く見せるために、自分の努力というものをありのままに表現はしない。自分は才能が優れている、としておきたいのであれば勉強量は過小報告するし、自分は一所懸命頑張ったから当然この学校に入る権利がある、としておきたいのであれば過大報告する。