宗教的なものの概念

いよいよクリスマスということで、先日の「聖なるもの」の続き。

ことしぼくが最もハマった思想家はカール・シュミットだ。
シュミットは『政治的なものの概念』のなかで、「カテゴリー」は二項対立から産まれると述べる。
シュミットのあげた例で言えば倫理は善ー悪、美学は美ー醜、経済は利ー害。
そして、政治は友ー敵である。
「政治的なもの」とは、この友ー敵の二項対立にかかわるものということになっている。


政治的なものの概念
マリネッティの「未来派」もそうだけど、
「未来」って言葉にはファシズム的響きが
するような気がする。
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古本屋で手に入れるのが一番いい
と思います。次点でマケプレ
政治的なものの概念
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では、宗教的なものとはなんだろう?
凡庸な答えではあるが、それは聖ー俗の二項対立に関わってくるものだと思っている。
ものごとを聖ー俗という軸を基準にとらえるとき、それはものごとの宗教的な平面の射影で考えていることになる。
(プラトンの洞窟の比喩ではないが、われわれは事象そのものを見ることはできないと考えている。何らかの概念的平面にうつった射影しかみることができないのである。)

では、この「聖」とは何か。

このまえの記事に書いたように、聖とは強いエネルギーのようなものだと思う。
「聖」は宗教的なもののカテゴリーに属するものであり、それ自体は美醜、利害、友敵…そんなものには無関係に存在する。
われわれは「聖」を美学、経済、政治などもろもろの概念的平面に射影することで美しいとか汚いとかいう判断をしているだけである。

では、はたして本当にそんなエネルギーは存在するのか。

そんなことは知らない。それを考えるのは形而上学の役割であり、いつまでも終わらない議論をしたいと望む人にかんがえさせておけば良い問題だ。

フッサール現象学は難解でよくわかっていないのだが、そういうことはエポケーしておきたい。
言えるのは、ぼくは「聖」なるものを感じることがあるし、それを「畏れ」ているということだ。
それが実際に存在するかどうかはしらないが、それをたしかに感じている。これで充分なのである。

逆に、なにか強く欲を掻き立てられるようなものをみてしまえば、自分の中のピュイサンスが「対象」を持つ欲望に受肉するのを感じることもある。
たとえば、同人ゴロの本自体にはなにもこもっていなくてもそれを読む読者が「強い」衝動にかきたてられるということはあるはずだ。
コミケでエロ同人を求めて走る群衆は、聖者の行進なのである。

バタイユの思想でよく出てくる「禁止と侵犯」・「消尽」・「供犠」
禁止を侵犯すること、消尽へむかうこと、供犠をすること…
これらもすべて「力」の問題に還元することはできないだろうか。

禁止を侵犯することには、タブーに挑む強さを必要とするし、供犠をすることにはある程度強いものを殺害してその強さを自分に取り込もうとか神様に取り込んでもらおうとかいう意図があるのかもしれない。
消尽に向かうというのは少し変わっているが、ポテンシャルの高い状態は不安定なため制御しにくい…という感じだろうか。
ものを高く持ち上げれば持ち上げるほど落下したとき地面にぶつかるときの速度は早くなる。(空気抵抗があるので実際は限度があるが)
ポテンシャルが高いところからものを落とすと、途中でどんどん早くなっていってしまって止めるにとめられなくなってしまうという感じではないだと考えている。

世の中には、太陽を信仰する宗教がたくさんある。
たしかに、太陽は聖なるものだと思う。
太陽を直接見ることはないし、初日の出をみるときでも無い限り太陽の美醜についてうんぬんすることはそうないだろう。
基本的に、ただ光っているだけだ。しかし、その光の強さは圧倒的である。

自らを燃やしながら、圧倒的な強さのエネルギーをはなちそれを我々に贈与する。(太陽は10^23kWのオーダーでエネルギーを発しているらしい。)
太陽の聖性はそういうところに由来しているのだと思う。

Appendix 1

 

ちなみに、力への意志といえばニーチェだが「権力への意志」の邦訳はほとんど妹が改ざんしたものを底本にしていて、遺稿をそのまま訳したのは白水社のだけ、と2ちゃんで教えてもらった。
「グロイター版」全集というものがニーチェ全集の決定版的なもので、ニーチェを本格的に研究するならグロイター版全集に収録されているものをよまなくてはいけないのだが、邦訳はほとんど古いグロースオクターフ版をもとにしているとかなんとか。
でも一番の問題は、その白水社版というのが基本的に手に入らないということなのである。


Appendix 2

 
呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)
ジョルジュ バタイユ
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バタイユではこれを一番最初に読んだ。
バタイユといえば「眼球譚」で、変態性とか倒錯してる、とかそういう表層だけをみてるひとたちも多い。
(まさにこういう人たち。:バタイユの『眼球譚』が変態すぎるので4コマ漫画にしてみた

しかし、そこでとどめるのはもったいない。
出会いはどうあれ、せっかくバタイユにふれる機会があったのならばもっといろいろな種類の文章に触れてほしいと思う。
そういう意味で、論理的な文章で書かれているしキャッチーな「変態すぐるwww」みたいなのもないこのへんのは入門にいいと思う。
「呪われた部分」という文字列が入った邦訳はいろいろあるが、「呪われた部分」という未完成の作品の完成部分だったり完成部分の草稿だったり未完成部分の草稿だったりと複雑。(ちなみに、紹介したのは「完成部分の草稿」だったと思う)
まぁ、どれから手を出すかはお好きな様に。

 

Appendix 3

 
宗教というものは、おそらくはじめは死者の弔いというところから始まったのだろう。
しかし、このはじまりと聖性の問題というのをリンクさせるのは簡単には行かない気がする。
ここについてはまだなにか書けるほど考えが固まっていないので今回はパス。