実践独暮批判

大学生ともなれば、独り暮らしをしている人も多い。

自分がいるのは東京の大学なので、実家が仙台だとか岡山だとかの人が一人暮らししているのはわかる。(新幹線を駆使して頑張れば実家がよいも不可能ではないが)
海外からの留学生であればなおさらだ。
だが、十分実家からかよえる距離なのに独り暮らしをしている人も結構いるのである。

自分のいる大学はキャンパス構成が複雑で、1,2年のうちは渋谷のちょっと先の駒場、それからは本郷という上野の少し西に通うというのが基本である。
というわけで、埼玉や千葉に実家があると駒場に通う二年間は独り暮らしをして、そのあと実家に戻る、というパターンが結構多い。

まぁ、それはおいといて、たまに独り暮らしをしているほうが実家暮らしをしているより偉い、という価値観をもっている人がいる。
その理由としてあげられるのが「自立」である。
自分のことを自分でしている、というのが自慢らしい。

あえて言おう、カスであると。

まず、独り暮らしをしているとはいっても、経済的に自立していることなんてない。多かれ少なかれ仕送りをもらっている。
でも、それは当然のことだ。むしろ親の仕送りに頼らずとも家賃光熱費食費その他もろもろが全部払えるほどの収入を得ようとおもったら、普通は学業に支障が出るほどの労働時間が必要になる。私立文系とかなら両立可能なのかもしれないが、それでも本末転倒だ。
学生なのに学業をするよりも働きたいのならすぐに大学をやめて就職するべきである。(人のことを言うなという感じだが…^^;)

また、環境にもよくない。
まず冷房について。たとえばある3人家族の一家全員がリビングルームに集まっていれば、動かすエアコンは一台でいい。しかし、その家族の一人息子/娘がひとり違うところに住んでいるとすると、エアコンは二台動かさなくてはいけない。家族で暮らす家のリビングにつけるエアコンとワンルームアパートにつけるエアコンではワット数が違うだろうし単純に倍とまではいかないにせよ、1.5倍は電力を使うことになるだろう。
洗濯物や洗い物も同様だ。こういうのはまとめて洗ったほうが洗剤や水の消費量を抑えることができる。

早い話、規模の経済が働くなってしまうと言うことである。同じだけの涼しさを得るにも同じだけの衣服を洗うにも余分な時間・エネルギーが必要になってしまう。


必要もないのに独り暮らしをしたい、というのは自立だとかなんだとか崇高な理念を掲げているが結局は単に家族の目がないところでのびのび自堕落な生活を送りたいだけなのだ。

これは、資本主義=個人主義社会の要求に非常によくあてはまるがゆえに、黙認されている。資本主義=個人主義社会は個人が封建的な制約を受けずに自由に欲望のまま消費活動をおこなうことを是とする。個人の行動を制約するのはただ「経済」だけだ。(もちろん法もだけど、家族のルール、部落のルールなどは排除されていく)


夜中にいきなり「アイス食べたいな」と思い立った時、家族で住んでいればなかなかふらっとコンビニに買いに行くとかできない。「今何時だと思ってるの?」とか、「夜中に食べると太るよ!」とか色々言われるんだろうな、なーんてことが頭をよぎり、面倒なことにはしたくないし明日買いに行こう、となる。
しかし、一人暮らしをしていればそんなことはなーんにも気にする必要はない。夜中の3時であろうが、ふら~っとコンビニに行ってアイスでもなんでも買ってくることができる。当然そうしてもらえたほうが金が流れて資本主義社会としてはうれしい。だから日本でも「一人暮らし」=「自立」という刷り込みをせっせとしている。

こういう生活は、確かに魅力的ではある。実際自分もたまに両親が帰ってこない日なんかはテンションが上がって夜更かししたりコンビニでデザートをたくさん買って食べたりしてしまう。

だがこれは、たまにだから良いのだ。
欲望を抑圧されている「ケ」なる日常があってこそ、たまの「ハレ」が輝いて見えるのだ。
資本主義=個人主義は毎日365日をハレにしてしまう。そして、すべてが経済に依存する、均質な時間が流れ始める。

このような時間は、生の輝きを失わせ、すべてを金の流れに変えてしまうのだ。
自分はそんな世界はつまらないと思う。 だから、一人暮らしに反対する。
(もちろん、必要があって一人暮らしをするのは構わないよ)



バタイユは「禁止は侵犯されるためにある」と言ったが…
たとえば夜中にコンビニに行くことは実質「禁止」されている。一人暮らしをしている人も、一人暮らしをはじめるまではそうだっただろう。
だから一人暮らしを初めてすぐは今まで禁止されていたことをするという侵犯の愉しみがあるだろう。しかし、それが連日のこととなるといつしか夜中にコンビニに行くことが禁止されていたということを忘れてしまう。そうなれば、夜中にコンビニに行くことは昼休みにコンビニに行くこととなんら変わらないものとなってしまう。
これがあらゆることにあてはまることとなって、禁止-侵犯のゲームが存在しなくなる。これが生の輝きを失わせると考える。