12/8に思う

前回、自分が左翼だという話をしたのでついでに。話は日本限定です。
12/8といえば太平洋戦争開戦の日ということで…。

「特攻隊」なんかがそうだけれども、太平洋戦争で戦死した人たちを「守るべきもののために命を捧げた…」とか言って英雄視し、美談にする流れがある。
しかし、自分はまったくそうは思わない。特攻なんか悲劇以外の何物でもないだろう。
よく「犬死に」という言葉が使われるが、だったらお前の人生には意味があるのか?という問いをかけられてしまうので、「良くない」死に方である、とでもいおうか。 (注1
決して特攻隊員を馬鹿にしているわけではない。
よく「特攻隊員を犬死にとは何事か!英霊を冒涜するのか!」なんていう人もいるが、当人の生前の気持ちを無視して「特攻隊員はみんな国のために死のうとして死んだんだ」と決めつけるほうがよっぽど冒涜的だと思う。

彼らはほとんどが「自分が行かなかったら家族もろとも非国民扱いされて、迷惑をかけてしまう…」こういうふうに思いつめて、行かざるを得なかったのだと思う。
いうならば、彼らは「敵国」から日本を守るためではなく「日本」から「家族」を守るために特攻せざるを得なかったと言って良い。

だいたい船を数隻沈めたところで、戦況はどれほどかわるのだろうか。アメリカは1941年から1945年までに正規空母・軽空母合わせて100隻以上も建造していたのだ。(しかも、戦争終盤は十分足りていたので生産ペースを落としてこの数字)


彼らがいたから今の日本の平和がある、なんていう人もいるが、そんなこともないだろう。
歴史は無数の要素が複雑にからみあっているのだから、ひとつのピースがかけていたらどうなっていたか、そんなことは永遠に知るよしもないのである。
もしかしたらしてなかったほうがいい結果になっていたかもしれない。

こんなものを美談にして扱っていたら、いずれ再び同じことが繰り返されるかもしれない。



右翼事情に詳しくないのだが、そもそも彼らの言う守りたい「日本」とはなんなのだろうか。

日本の文化だ、というならば、別に国体を維持する必要もないではないか。

仮に中国が圧倒的戦力をもって「征服するぞー!」と日本に攻めてきたとしても、日本の文化を守りたいのならば戦争で徒に命を散らすよりも占領下で文化を守る活動に従事したり「旧日本人」の権利を守る活動に従事したほうが生産的だし、「守りたい日本文化」の存続には有効だろう。
極端な例を挙げるとすれば、仮に「日本人」全員が「日本」を守るために戦って死んだら「日本文化」は永遠に失われることになる。

「家族」 も同じ。死んだらその後のことには一切干渉できないんだから、家族を守りたいとしてもなるべく長く生き長らえるべきだろう。

「命をかけて守る」 、聞こえはいい。しかしこれはせいぜい死ぬ人間が守れた気になって死んでいけるというだけで、実際に守れるのかどうかはまったくわからない。ほんとに守れたかどうか、死んでしまっては知る由もない。
映画とかで美談にできるのは、鑑賞者である我々が主人公が死んだ後をも見ることができるからなのだ。

日本の国体を守りたいんだ、というならば仕方がない。一度も話したこともないような「天皇」が大好きでたまらない、天皇のためなら死んでもいい~というのならそれはそれでかまわない。それを他人におしつけなければね。
天皇家は万世一系で…二千年も続いてて…神聖な…っていうけれども、今生きてる人間は全員最初の生命からずっっっっと命が続いてきてるんですけどねぇ。

「日本」という言葉には様々な概念が込められている。
自分の家族や触れてきた文化を愛せるというのは大変幸福なことだし、素晴らしいことである。
だからあなたが「日本が好き」と思うのは大変結構なのだが、もうすこし掘り下げて 自分が好きな「日本」というのはなんなのかを考えるべきだろう。
「日本」という大きすぎる言葉に振り回されていないだろうか。

そして、何のためであれ命を簡単になげうつべきではない。
人の命は軽いもので、死ぬのも殺すのも簡単だ。
そんなものを懸けたところで 守れるものなんて大してない。

本当に何かを守りたいのならば、なるべく生きぬいて行動し続けることが大切なのではないだろうか。

思ったより書いてるうちにヒートアップして12/8に間に合わなかった…w


注1)
だったら良い死に方とはなんなのだろうか。若くしてすい臓がんになって死んだりするのはどうなのか?

フロイトが「生きる意味や価値を考え始めると、我々は、気がおかしくなってしまう。生きる意味など、存在しないのだから。」と言ったように、人間に絶対的な生きる意味なんて存在しないだろう。
「後の世のために」 何かをしたところで、その後の世の人もいずれは死ぬわけだし、さらにいえば人類自体もいつかは滅び地球すらもいつかはなくなるだろう。
それを踏まえた上で納得できる死に方とはなんなのだろうか。
この問に心から自信をもってこたえられる人はそうそういないだろう。もちろん自分もまだ全然だ。
自分が死ぬことを考えるだけで恐怖である。

しかし、いずれは来るもの。ゆっくりと自分なりの答えを探していかなければ。

ジョルジュ・バタイユは「アセファル」第一号『聖なる陰謀』のなかでアンドレ・マッソンが「死は愛情と情熱に満ちた死にならなければならない」と叫んだと書いている。
若くして死ぬのならば、そういう死に方がよさそうだ。
キェルケゴールのいう「そのために行き、そして死ねるような自分だけの主体的真理」を見つけてまさしくそのための熱狂的な死。

しかし、できることならば長生きはしたい。(できれば400年くらい生きたい。医療の進歩に期待!)
自分が親や祖父母からうけたのと同じくらい、それ以上の愛を子どもや孫、さらにその子孫に注いで、彼らが立派になってくれれば心安らかにいけるのかもしれない。

医療分野の問題で「尊厳死」というものがある。要するに、寝たきりどころか指すら動かないような状態になって、今後も回復の見込みが全くもってなくなったら無理やり生かしたりせずに死なせてくれ、というものである。(安楽死とは違って、自力で生命を維持できる状態なのに楽にするため殺したりはしない)
尊厳死が問題になるということは、無理やり延命させられて、半死半生状態を経た後に死ぬよりは自然に心臓が止まるにまかせたほうが良い死に方、「尊厳のある死」であると多くの人が考えているということだろう。
キューブラー・ロスの提唱した死の受容プロセスの最終段階は「発狂」とか「幼児退行」ではなく「受容」となっている。(キューブラー・ロス自体は死を受容できなかったとかいうが)
時間をかけて老い・病でゆっくりと衰えていくことは死の受容を促すのだろうか。

今流行の?緩和ケアは延命よりも患者にやり残したことを可能な限り叶えてあげたり、最期は永く住んだ自宅で迎えたいなどの希望を叶えることを重視する。

先程述べた熱狂的な死も、緩和ケアの穏やかな死も最期に「自分の意志」にしたがって行動することができたかが鍵になっていると思う。
やはり、最期くらいは自分の意志を通せる死に方というのがよい死に方、なんじゃないでしょうか。