「どうすれば愛しあえるの 幸せな性愛のヒント」を読んだ

年も変わったということで、ちょっと攻めた話題をぶちこんでみようかと。

はじめに

最近自分のアンテナによく引っかかる、「どうすれば愛しあえるの 幸せな性愛のヒント」という本を読んだ。対談本なので、3,4時間で通読できる。

どうすれば愛しあえるの: 幸せな性愛のヒント

どうすれば愛しあえるの: 幸せな性愛のヒント

前提として抑えておくべきは、対談を行っている二人も読んだ感想を書いている自分もともに男性・ヘテロ性愛者である点。そして対談を行っている二人はさらに性的強者だという点である。 このため、男性目線かつヘテロセクシュアルな立場から見た景色である、という点はのんでほしい。

またすでに「男性目線かつ…」なんていう用語を留保なく使ってしまっていることからわかるようにナイーブに「男性的」とか「女性的」とか使ってしまう。 いちいち考慮するのはさすがに無理である。(これはあくまで個人が合間時間をぬって書いている趣味のブログなのです…。)

セックスによって得られるもののちがい

セックスにおいて、男女の究極的な役割は固定されている。 男性器を模した器具を女性側が装着し、男性側の肛門に挿入することで擬似的に役割を逆転することもできる(らしい//)けれども、それはあくまで擬似的なものである。

基本的には、男性のことを女性が受け入れるという構造になる。 当然、得られるものもかわってくる。官能的な快楽みたいなのは両者共通だと思うので、精神的なところをかんがえてみた。

セックスによって男性が得られるもの

前述したように、セックスは女性が男性を受け入れることである。 これによって、人として肯定されているという満足感を得ることができる。

職場や学校での評価が、「ある特定の役割を演じることに関して」にのみ与えられるのに対して、セックスによって得られる肯定感は自分の全人格を受け入れられているという感覚だ。 少なくとも世の中に1人は自分の味方がいるという実感、それがかつては家庭がはたすことを望まれていた家庭外で「戦って」きた男性が家庭で安寧を得られるという機能を支えていたのだと考えられる。(自分の会社に、帰宅恐怖症らしい人がいるのだが、そういう人にとっては家庭と家庭外が逆転してるのだろうか?)

また、いわゆる好色な男性にとってはどれだけ多くの女性をオトせたかという定量的な指標になって自分に自信がつくのかもしれない。 変な話、自分にはどんな安いぬいぐるみとかでも一度自分のものになってしまうとなかなか捨てたりできなくなるという妙な情の移りやすさがある。なのでそういう人にはなれないと自覚している。 自分の魅力をアピールできてすぐに人に心を許させてしまうというスキルには憧れなくも無いけれども。。

セックスによって女性が得られるもの

これは自分で経験できないので想像するしかないのであるが、女性にとってセックスによってしか得られないものというのはなかなか想像できない。

相手から求められている感覚?とも思うけれども、それは相手に多くの物を買ってもらったりしてもらったりしているほうが「そこまでしても私に愛してほしいのね」という感覚があるんじゃないだろうか。

一方で、自分の体を相手にゆだねる・そしてそこまで信頼できる相手のぬくもりを感じられるというのはあるかもしれない。 とはいえこれもセックスでなければならない、という話なのかという疑問がある。本書にも「女は潮吹きよりもハグが好き」という項があるように。。

(近い話なのかは微妙だけど、マッサージされてるときって単にほぐされてるからきもちいというだけではない気がする。 首をいつでも絞められる状態にいながらも、なすがままにされ相手に自分の体と命を委ねている感覚。それが気持ちよさの要因の1つになっていると思う。)

得られるものとは別になってしまうかもしれないけれども、相手に肯定感を与えることによって愛情をつなぎとめているという実感というのもあるかもしれない。 ただ、この場合は愛を自分の体と交換している感覚というか、売春の場合のお金を愛に置き換えたかのようなすり減り感があるのではないだろうか。

比較すると

男性の得られる肯定感というのは、いってしまえば質はどうあれセックスさえさせてもらえれば簡単に手に入るものである。 一方で、女性が得たいものは単にセックスすれば手に入るというものではなく、そこに至るまでの道筋からすでに始まっている、ということであると思う。

だから一般的に男性は即物的なものであってもとにかくいつでも発情できるのに対して、女性側はそうではないんだろう。質に関する効用関数の形状が違うというわけだ。

この違いを了解しないままだと、セックスを拒まれる男性は自分のことを否定されていると感じ、求めていないセックスばかりを求められる女性は自分に対する愛は自分の体を提供することの引き換えなのかと思ってしまう。 本当は愛し合っていたとしても、その愛がどう表現されるべきなのかに関する了解の違いからすれ違ってしまうのだ。

どうしたらいいのか

同じ行為を通じてなのに、違うものを求めている。こういうのって、自分たちではなかなか気付け無いことである。というわけで、気付いただけでも「自分が否定されているわけではないんだ」/「愛はセックスの対価ではないんだ」と頭でわかることはできる。

そこから先は、それぞれの道をさがすしかないんじゃないだろうか。