インターネッツのメッセージングについて

note.mu

この記事、ちょっとおもしろいんですよ。面白いとか言いつつお金払ってないんで途中までしか読んでないんだけど。だれか読んだ人いたら無料で教えてください。

僕はけっこうメッセージのやりとりは一元化したいタイプだった。十年前NOKIAのスマートフォン(SymbianS60の)でMail for Exchangeを使って携帯でもGmailを使えるようになったぞ!っていうころからすべてのメッセージはGmailに集約しようと頑張ってみていた。vodafone.ne.jpのアドレスは使わないように使わないように。(Softbankになってからも、ずっとvodafone.ne.jpをキープしてたんですよね)

それから時はながれ5年くらい前からだろうか。Twitterでしか連絡先がとれない人がでてきた。本当はいやだけれども、知らないんだからしょうがない。連絡相手によってGmailかTwitterを使い分けることを覚えた。これはいつの間にか慣れてしまい、今では特に気にならない。

(ちなみにLINEはこれまでのGmailをそっくりそのまま置き換えただけなので特筆する必要はない)

でも、使い分けはあくまで人ごとであって、同じ人とやりとりするのにパスが分散してしまうのは未だに慣れない。ある人物とのやり取りがメールになったりTwitterになったりするのはなんとなく嫌。普段Slackでやりとりしてる人とLINEでやりとりしたり、LINEでやりとりしている人とInstagramのDMでやりとりしたりするとなんとなくむず痒いような気持ちになる。

自分にとってインターネッツ上でのメッセージングの原風景はメールである。メールはエクリチュール的というか、記録される文書なのである。だから一箇所に時系列に沿ってまとまっていてほしいのだ。 同一人物とのやり取りが複数パスあるというのは、シリーズ物の本が整列されずいろいろなところに適当にぶちこまれている本棚のように感じられる。

でも、初めてインターネッツにつながる窓を手にしたときからLINEやらTwitterやらFacebookやらSnapchatやらがある世代はあまりこれを気にしてないような気がする。メッセージのやりとりはエクリチュール的ではなくパロール的というか、あとから見返すことを想定しない、現前性のコミュニケーションなのだ。(「声と現象」を読み直さなくては) SnapchatやInstagram Storiesはシステムとしてそれを取り込んでいますよね。

そういう風景のもとでは、メッセージが複数のパスに分散することはなんらおかしなことではない。それを気にするのは、「あなたとは日暮里では話したいけど西日暮里では話したくないです。(???)」と言うのと変わらないんじゃないだろうか。 そういう時代になってくると、LINEがどんどん地位を追われるのは必然な気がする。LINEには、会話のきっかけがないのだ。LINEは簡単なように見えて、メッセージを送るまでの障壁が意外と多い。

Instagramだったら、相手がアップした写真に「それおいしそうだね!どこにいったの?」「それかっこいいね!どこで買ったの?」的なきっかけがいくらでもある。その対抗策がタイムライン機能だったりするんだと思うけど、LINEのタイムライン機能はあまり活気が無いですね。すくなくとも自分の観測範囲では。

Instagramのようなきっかけに溢れたSNSがパロール的なコミュニケーションの場として盛り上がる一方で、LINEはエクリチュール的なメッセージングだけを担うツールへとどんどん縮小していってしまっている。


最初にリンクした記事だと、Twitterはもう使われてないんですよ、みたいなことが書いてあるけどそれは偏差値の低い群に限った話なんじゃないかなぁと思います。「Instagramが」LINEを食っているというのは見当違いではないかと思った。本質的には会話のきっかけを作ることのできるSNSがLINEを食っているのかと。

中学生がLINEを使うのも、「学校と家の往復がメインの中学生だと、インスタとの相性がよくないのかもしれない。素敵な写真が撮りにくいため。」ではなく、中学生は日常的に直に顔をあわせている同士なので、写真に頼らなくても会話のきっかけがいくらでもあるからでは。