読書がいいものだと気づいた朝

通勤途中、なるべく本を読むようにしている。

朝のほうは英語で重めの本を読み、夜の方は日本語で新書とかをというルーチン。後者の方は最近地政学系の本が多い。

興亡の世界史 ロシア・ロマノフ王朝の大地 (講談社学術文庫)

興亡の世界史 ロシア・ロマノフ王朝の大地 (講談社学術文庫)

文明の十字路=中央アジアの歴史 (講談社学術文庫)

文明の十字路=中央アジアの歴史 (講談社学術文庫)

で、前者の方はもうずっとYuval Noah Harari のHomo Deusを読んでいる。前作のSapienceも読み終わるまで半年近くかかったような気がするので、今度もそれくらいではないだろうか。マルタから帰ってきてから読み始めて、今6割くらいというところなので。

Homo Deus: A Brief History of Tomorrow

Homo Deus: A Brief History of Tomorrow

このHomo deusを途中まで読んで書いている状態で書いたブログ記事がある。

www.k5trismegistus.me

この記事を要約すると、ディープラーニングによって人間には理解できないやり方で人間よりも優れた知性がうまれてきているが、そうなると人間の知恵の継承というのは近代以降の理性的なものではなくなりファンタジーに出てくるような「アーティファクト」を大事にすることに変わっていくのではないか?というものである。 (知性とはいっても、人格を持ったゼネラルなものではなくて特定のタスクを処理するものというイメージ。)

この記事を書いてからもう1月近くたっているが、最近Homo deusを読み進めているとすごく近い内容が書いてあった。

その内容はこんな感じである。

まず、今までは人間にしかできないと考えられていたような知的労働がすでに機械によって代替できる可能性が出てきている、またはすでにものによってはされているということが語られる。 そしてプログラムは決して疲れないし感情によってパフォーマンスがブレることもない。画像診断医を例にとって、人間の医師よりも高パフォーマンスなプログラムを開発するのは、1人の画像診断医を育成するよりもお金がかかる。しかし人間の医師は1人育成できてもその人が働き続ける年数にも限度があるし、もう1人育てようと思ったら同じだけのコストがかかる。でもプログラムは一旦出来ちゃえばあとはコピーが無限にできるし無限に働き続けられるから機械のほうが可能性もある、ということが続く。

まぁ、僕のブログと完全に一緒のメッセージではないけれどもかなり通じるものはあるように思う。

で、ここから何が言いたいか。ハラリと同じインサイトを持っていた自分すごいっしょ、ということではない。

本を読むことで内容をそっくりそのまま覚えられなかったとしても、それが伝えたかったビジョンが残っていて何について考えどう自分なりに考察するのかという部分に影響を与えられているのだということだ。

僕の本棚には、読んだはずだけど内容が全然思い出せないような本がいっぱい並んでいる。それを読んだ時間は無駄だったのだろうか? 願望も込みで言うとそうじゃないと思う。

中学校時代に解かされた二次方程式の問題をひとつひとつ覚えているわけではないけど二次方程式の解き方や、どういう課題に対して応用できるのかといった抽象は覚えているというのと似ているような気がする。

もし表には浮き上がってきていなくても、何か考えているときに「そういえば同じような話題がXXという本の中で言及されていたような?」と思い出せるくらいならもう上々で、基本的には読んだことすら忘れてしまうことのほうが多いだろう。 しかし、そこから得られる抽象は身についているはず。

人間の記憶うあ基本的には物語化や連関によって覚えるので、抽象がたくさん入っていればそれと連関する内容も覚えやすくなる。そうなると読んだ本の内容も覚えやすくなっていく。 読めば読むほどネットワーク効果により収穫は逓増していくわけだ。

たくさん本を読んで、引き出しを増やすのが大事なんだなぁと思った。