未来と芸術展@森美術館 をみてきた

森美術館で開催中の「未来と芸術展:AI、ロボット、都市、生命――人は明日どう生きるのか」に行ってきた。

www.mori.art.museum

今回は「未来と芸術」というタイトルだが、森美術館は「医学と芸術」「宇宙と芸術」などの「〇〇と芸術」シリーズを定期的に開催しているらしい。

構成

「未来と芸術展」は五部構成で、各セクションの中身はこうなっている。

  1. 都市の新たな可能性
  2. ネオ・メタボリズム建築へ
  3. ライフスタイルとデザインの革新
  4. 身体の拡張と倫理
  5. 変容する社会と人間

それぞれについて簡単な内容と、惹かれた展示について記録してみる。

セクション1 都市の新たな可能性

最初は新たなテクノロジーで可能になる未来の都市アイディアといったものが紹介されている。

ひとつがアブダビのマズダールシティである。オフグリッドソリューションなんかは今の自分の仕事と関連するので、まぁ面白い。 太陽光発電ではなく太陽熱発電を中心に据えているところなど、「わかってるなぁ」と思った。

www.daiwahouse.com

要するに最初の方はテクノロジーによって見えてきている明るい未来という感じのキラキラした雰囲気から始まっていくわけだ。

一方で、この段階ではまだ芸術という感じはせず、デザインは未来感あるものの純粋に工学の範疇のなかだといってよい。ゼネコンのCMでも見ているかのような気持ちになるセクションだ。

セクション2 ネオ・メタボリズム建築へ

セクション1と似ているが、セクション1が都市というマクロなスコープを持つのに対してこちらは個別の建築物というミクロなスコープになる。

ここで面白かったのは2点。

まずは「グラマツィオ&コーラー」によるドローンによる建築実験インスタレーション。むろん実演はなくてイメージが展示されているだけではあるが。 ドローンが発泡スチロールでできたブロックを積み上げることで、ロボットによる建築の可能性を提示した。

家を組み立てるのが数時間でできてしまうような世界がきたら、人の移動ってもっと自由になるのではないだろうか。 今、香港然りシンガポールしかり、金融センターは妙に暑い地域に多い。こういう地域だったら、簡易な家でも住もうと思えば住める。 こういうショボいけど早いという建築様式との相性が良いのではないかという気がしてきた。 札幌で発泡スチロールのブロックを重ねただけの隙間だらけの家に住んでいたら凍死してしまいそうだが、シンガポールだったら住めなくもない、、?

architecturephoto.net

もう一個がデイビッド・ベンジャミンの「Hy-Fi」。トウモロコシの茎など、有機物のゴミに対して菌糸をはらせることで建築素材に使える強度を持つブロックが作れるんだそうだ。 この作品自体はブロックの製造と建物のアセンブルは別工程なので完成する建物はスタティックなものだが、推し進めれば家で出たゴミをそのままレンガにして増築できるとかあり得るかもしれない。 日本だと家って完成したものを買うものだが、ジプシーの家などはお金があるときにレンガを買ってちょっと増設しを繰り返し、常に未完成であったりするらしい。

wired.jp

セクション3 ライフスタイルとデザインの革新

セクション2よりさらにミクロになって、人間の「道具」レベルのスコープといえばよいだろうか。セクション2で紹介したものと似ているが、木くずを菌糸で固めてつくる家具などが展示されている。 バイオ材料といえば、蜘蛛の糸が強度がつよいという話は聞いたことがあったが、菌糸もこんなに使えるものだとははじめて知った。

3Dプリンターと組み合わせることで、家庭の中で出た生ゴミと菌を3Dプリンターで家財道具に整形するといったことが普通にできるのかもしれない。

ここでは「ビストロ・イン・ビトロ」と「OPEN MEALS」が気になった。 今、東京都市部にはだいたい1000万人くらい人が住んでいる。都市部では食料生産が全くされていないとして、それぞれが1日1kgの食料を食べるとしたら、毎日1万トンの食料をどこかから運んでこないといけない。 だいたい食品って水と同じ比重なので、1万トンってどれくらいの容積なのか調べてみたら、としまえんのプールがちょうど1万リットルらしい。 毎日としまえんのプール一杯分の食料が外部から運ばれてくるわけである。 思ってたよりは大したことないなと思ったけど、それでも都市の食料事情の脆弱性はイメージできるのではないだろうか。

電気で言うオフグリッドみたいな感じで、食料も都市の中で完結することはできるのだろうか。

www.gizmodo.jp

www.open-meals.com

セクション4 身体の拡張と倫理

さらにミクロに、人間の身体レベルにスコープが落ちる。これまではテクノロジーばんざい感が強かったのが、ここになって急に雰囲気が変わってくる。「倫理」って入っているくらいだしね。

義手や義足といった、『健常者』になるため、足りないものを補うための技術は諸手をあげて迎えられる。では、人間を「より良く」するための技術は? それを問うのがエイミー・カールの「《進化の核心?》」である。

生物の進化ってアドホックなパッチの積み重ねでできているもので、目的に対して合理的なものとはいえない。人工心臓も、実は拍動なんていらなくて定常的に血液を送り出してもよいそうだ。そのほうが血栓も出来づらくなってよいらしい。 ということがわかった上で、それを実現してもよいのだろうか。

boundbaw.com

また、大人が自分の判断でやるのはともかく、生まれてきた子供に勝手に施すのはどうなのだろう。社会が「改良された」人間によって担われるようになったら、「改良」しなかったことで子供から責められることもありうるだろう。

www.agihaines.com

セクション5 変容する社会と人間

既存の社会システムは、これまでのテクノロジーの限界に沿ってつくられてきた。たとえば、子供には父親と母親二人の肉親がいるという前提。しかし、ミトコンドリアだけを他の人から受け継がせるなど、遺伝的に3人以上の親をもつ子供の可能性も出てきている。

また、人手を介さずにアルゴリズムが人の生き死にを左右するような決断をすることもありうる。それが失敗したとき、誰が(何が)責任をとるべきなのか?それとも自然人と法人という「人格」に依拠した社会システム自体が機能し得なくなるのか?(ブロックチェーン界隈だと、「世界との契約」なんていう概念もでてきている)

というようなことを問題提起するセクションだと理解した。

テーマは面白いのだが、展示品としてはちょっと???というのが多かった感がある。強いて言うならマイク・タイカの「私たちと彼ら」だろうか。アイコンの顔写真もディープラーニングでつくられた実在しない顔写真、テキストの内容もそう。フェイストゥフェイスではないコミュニケーションでは、もう相手が人なのか機械なのかはわからない時代がやってきている。

tech.nikkeibp.co.jp

芸術とテクノロジーの関係

ベンヤミンの「技術的複製可能性の時代の芸術作品」には

昔から、芸術の最も重要な役割の一つは、完全に満たされる時期がまだ到来していないような需要を作り出すことであった。どのような芸術形式の歴史にも危機的な時代がある。芸術形式はそのような時代には、技術水準が変わった後に、つまりある新しい芸術形式においてはじめて無理なく生じる効果をめざして突き進む。このようにして―とりわけ衰退の時代に―生じる常軌を逸した芸術表現や粗野な芸術表現は、実は、最も豊かな、歴史の力の中心部から生まれ出るものなのである。

河出文庫「ベンヤミン・アンソロジー」p330

という一節がある。

下部構造が上部構造を規定するというマルクス主義的なイデオロギーの香りはあるが、僕の「芸術」という言葉に対する意味付けはベンヤミンからの影響が大きい。

新しい技術水準の時代に可能になること、考えなくてはいけないことをナラティブに提示するのが芸術だというように考えている。つまり、本質的にテクノロジーと不可分なものだと考えて良いように思う。 (科学技術に限らず、社会制度というテクノロジーも含めて)

もはやテクノロジーの進歩が早すぎて、新しい技術水準ではなく今当たり前にできることが普通の人にとっては「魔法」となっている今日この頃。芸術の示すものがテクノロジーよりも遅れてきているのだろうか。 テクノロジーの現状認識をするのにもいい機会だが、芸術に何ができるのかも見つめ直す時代なのかもしれない。

この企画展は3月29日まで@東京・六本木の森美術館です。

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www.k5trismegistus.me


展示会情報

タイトル:未来と芸術展 : AI、ロボット、都市、生命 ―人は明日どう生きるのか

場所:森美術館

作家:会田誠、ミハエル・ハンスマイヤー、長谷川愛、李山、諸星大二郎 他