テレビゲームは文化になりえるのか?

自分自身はあまり外出自粛とかきちんと守ろう!と思いづらいタイプなのだが、みんなが自粛していたおかげで行くところもなく結果的に自粛の生活を送っていた。

たしかアガンベンあたりが「『非常事態』は拡大する傾向にある」的なことをカール・シュミットの「例外状態」について言及していたような気がするが、みんなの自主的な努力で行政権の拡大(強制力を持った休業命令など)なくして事態が収束に向かっているというのは、非常に素晴らしいことだと思う。冒頭の一文を書くような人間が言うことか、という気もするが。

西ヨーロッパ諸国で、仕方ないとはいえ国民の権利が制限されるような事態がおきえたことは残念なことだ。

こういう事態になると、きまって総理大臣やら大統領の「決断」に期待する声が高まる。 が、「決められるリーダー」という旧時代のリーダシップ観ではなく、「トランスフォーメーショナル・リーダーシップ」や「シェアード・リーダーシップ」のようなより新しい理論を勉強してほしいものである。

かといって日本ではこれらの新しいタイプのリーダーシップが機能したというわけでもなく、「ヨーロッパ諸国と比べてなぜか日本では死亡率が低い」とともに「ヨーロッパ諸国と違って強制もしてないのになぜか行動変容が起きた」という再現性のない成功であると思う。これが次回も成り立つかはきわめて疑わしい。

世界標準の経営理論

世界標準の経営理論

  • 作者:入山 章栄
  • 発売日: 2019/12/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
リーダーシップ理論についても書かれている。最近読んだ中ではかなりおすすめ本。

外出自粛のおともにWiiを買ってしまった

さて、本題になるが外出自粛ですることもなくなってきて、ふともうゲーム機を買ってやろうと思った。 学生の頃まではPCでコールオブデューティーをやっていたけれども、家庭用ゲームハードを買うのはもう10年ぶりくらいである。

特に据え置きゲーム機はPS2しか持っていなかった。

本格的にやるわけじゃないので安価、かつライトに遊べそうなソフトがそろっていそうということでターゲットはWiiに設定。 Wiiといえば新規性から大ヒットとなったが、その後は操作方法が独創的すぎる&半導体の性能が同時期の他者ハードに比べて圧倒的に劣るということでソフトメーカーから敬遠され、普及台数の割には成功ハードという印象がない。(その後のWiiUにもつながってしまったわけだし)

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ということもあってか、かつてWiiはハードオフで1000円で売られていたのをみたくらい市場に有り余っていたはずなのだが、自分と同じように安い暇つぶしを探している人が多いのか、それとも機械的な故障によって市場に出ているタマが減っているのか、思ったほどは安くなかった。

とはいえ、本体+リモコンx2+ヌンチャク+ソフト2本で3000円とまずまずな価格。一方で、マリオカートWIi+Wiiリモコン用ハンドルアタッチメントx2で3750円とソフトとハードの価格が逆転してしまっていた。

ハードと結びつく体験

テレビゲームといえば「互換性」問題がある。

レトロフリーク (レトロゲーム互換機)

レトロフリーク (レトロゲーム互換機)

  • 発売日: 2015/10/31
  • メディア: Video Game

自分がモノゴコロついてからはじめてのゲームハード世代交代が PS -> PS2 だったので、互換性はあるのが普通という感覚でいたのだが、ご存知の通り実は互換性はある方が少ない。 知っている限りだと、PSとPS2、PS2とPS3(初期)、ゲームキューブとWii, WiiとWiiUだけ。

Wii/PS3世代以降はバーチャルコンソールなど過去作をプレイできるサービスがあるとはいえ、ここには大きな断絶があると思う。 インターフェースがやっぱり違うのである。

実は一部、GCコントローラーはWiiで使えるとかWiiリモコンはWiiUでも使えるといった互換性はあるのだが、インターフェースの互換性はソフトの互換性に増して少ない。

僕も小学生の頃はニンテンドー64をやっていたけれども、64のゲームという体験は単にソフトというよりかは、あの制作意図のわからない三叉コントローラーとプラスチッキーな3Dスティックの操作感と切り離せるものではないように思う。

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過去をアップデートできてこその文化

僕がテレビゲームは単なる娯楽だと考える理由のひとつが、体験がハードの寿命と密すぎるというものがある。 先人たちと同じ体験ができないものが、文化として受け継がれていくとはなかなか思えない。

もちろん本だって紙やフォントが時代とともに変わるし、映画だってスクリーンのアスペクト比が変わって厳密には昔と同じ体験はできない。 なので超えられない質的な壁というよりかは、この時代に寄って変わる要素の寄与度にあるんだと思うけれども、ゲームの場合コントローラーの差は本質的な差になると思う。 過去の作品をとりあえずプレイだけはできるようにしました、というのは体験を過去に伝えるには不十分だと思う。

一方で、演劇や音楽の場合は逆に2度と同じ体験はありえないわけだが、逆にそれを前提として、毎回舞台装置や演者に応じたものとして上演される。

テレビゲームも、ハードの世代が変わるたびにインターフェースに合わせてリメイクをし続ければよいのかもしれないが、どうも今の市場はそれを許容していないようだ。

過去の作品を、伝説でしか知り得ないようになってしまっている現在、過去の作品と現代の作品がならぶことはできず、そういうものは文化としては育っていかないのではないか?と思う。