レビューを忘れられる権利について

世界を見る眼鏡

GoogleやFacebookといった、人々のコミュニケーションを握る企業には、純粋な利益を追求する企業とは異なる責任が求められる、と僕は思う。

たとえば、フィルターバブルの問題。

wired.jp

写真のフィルターという問題もある。

Google Pixelはメンタルヘルスの観点から「美化フィルター」に狙いを定める | TechCrunch Japan

SNSの時代の子供

テレビをみていると時折、おじさんおばさんに若者文化のことを「教える」という体で20歳前後の人がでてくる事がある。

#ハッシュタグの世界:2020年10月13日|TBSテレビ:マツコの知らない世界

まぁ、モノゴコロついた頃から、そのときどきの「若者文化」の専門家である「若者」が「おじさんおばさん」相手にしたり顔で自分たちのことを語るというのはよく目にしてきたわけだが。。 (大人から「若者」とひとくくりにされるのは嫌な割に、自分たちは勝手に「若者」を代表することには抵抗がないのが不思議)

↑で紹介した番組でもいわれているように、最近は「ググる」は古くて、Instagramのハッシュタグ検索で情報を得るというのはよく聞く。 飲食や旅行系では特にそれが顕著だという。

しかしまぁ、子供時代にSNSがなかったのはとても幸福なことだなぁと思う。 ただでさえ逃げ場所の少ない学校の人間関係というもののなかに押し込められている上に、さらに物理的に離れてもオンラインで束縛されているというのは恐ろしい話だと思う。

空気を読む、和を乱さないということを至上とする価値観が強まっている、といわれても、おかしくはない土壌で育つことを強いられている。 (定量的なデータでは示されていないので、実際にそのような雰囲気がある、と断定はできない。が、原理的にそうなりそうな気はする。)

globe.asahi.com

個人的には、いまのところSNSにはこれまで声をあげられなかった人が訴えることができるようになったという功もあれど、絶対量でいえば、世界を窮屈にした罪のほうが大きいように思う。

正解を求める

これは本題からそれるけれども、

SNSでの双方向の監視とともに、まとめサイトでの「正解」があふれる時代。 「ノームコア」とか「量産型」と呼ばれるファッショントレンドもそれにともなって生まれたものだと思う。

自分が何を着たい・食べたいよりも、世間が何を着たがっているか食べたがっているかに従って生きるというのは、楽そうだがそれで楽しいのだろうか。他に楽しみがあると言われたらそうか、という感じだが。。。

レビューに「チャレンジできる」権利が必要なのでは

さて、本題に戻る。

あまりこのことを問題にしている人を見たことがないのだが、レビューがいつまでも残るということは好ましくない事態だと感じている。

僕はクレジットカード受け付けますという看板を掲げているくせに「ランチはカードうけつけてないんで〜」と顧客に嘘をついて呼び寄せておきながら悪びれない飲食店にはたまにGoogle Mapで星ひとつレビューをつけることもあるが、そういった店だって心を改めてきちんとクレジットカードを受け入れるようになっているかもしれない。 そういったときに、僕のレビューは消えてしかるべきもののはずだ。

「まずい」とか「店員の態度が悪い」とか「他の客が臭い」みたいな悪い情報は、永続的なものではない。 これらのレビューを真摯に受け止め、改善しようと思う真面目な人も多いだろう。

しかし、どんなに努力したところで、今メインストリームになっているサービスだと星1つレビューはいつまでも消えることはない。 Google Mapのレビュー方式は、店側によりよいサービスを提供するインセンティブも、他のレビュアーがそこを訪れて悪いレビューを打ち消すようなレビューをするインセンティブも設計できていない。

レビューに対して「改善したからもう一度来てくれ」という返信をして再訪してもらい、レビューを改めてもらうくらいしか道はない。

たとえば、悪いレビューに対して「チャレンジ」ができて、一定期間それ以上悪い評価がつかなければそのレビューが消えるとか、そういう制度があることが必要なんじゃないかと思う。

前科者じゃなくても、忘れられる権利はあるのだ。